鵼の碑

京極夏彦『鵼の碑』を読んだ。

ちゃんと面白い。『塗仏の宴』までと比べると物足りないが『陰摩羅鬼の瑕』『邪魅の雫』よりよかったと思う。

詳しくはこのあたりこのあたりを参照してほしいのだが、京極によると百鬼夜行シリーズは作品の全体構造を考え、同時にそれを体現するような妖怪をディテールとして採用するという形式で作られている。
『鵼』で言えば、おそらくまず「複数の事実や認識が重ね合わされるうちに中心を欠いたまま肥大していく話」みたいな全体構造のイメージがあってそれを体現する妖怪としてヌエが採用されている。
このイメージを補強するために本地垂迹山岳信仰、碑文の解釈、忘却とトラウマ、陰謀論などの話題が提示されそれが物語と関わってくる。
陰謀論はわかりやすくヌエのイメージを体現する。「すべては繋がっている」というのが陰謀論的な思考の形式であり、その思考にとらわれた人間はヌエのような――猿と虎と狸と蛇が一つの生き物であるような――奇妙な認識を作り上げそれを不思議とも思わずに現実としてしまう。
(この作品を書く際に京極が島田荘司のことを想定していなかったということはありえるのだろうか?)

 

『鵼』の構造は正直「いつもの」という印象はあり、これはヌエの「複数の要素が一つのものとして(誤って)認識されている」という性質がそもそも「妖怪」の性質そのものであるというところから来ていると思われる。
『塗仏』あたりで書いていたはずだが、どんな妖怪だって複数の由来が渾然一体となって一つの名前を与えられているという意味ではヌエのようなものだ。だからこの作品は悪く言えば縮小再生産のセルフパロに近いところがあるようには思える。だがそれだけではない、かもしれない(京極本人は「主題となるお化けのバリエーションは被らないように選んでますし、キャラクターという部材を流用しているのと、同一時間軸上にあるというだけで、そもそも別物」「同じに感じる方もいるでしょうけど。そこはお好きにお読みいただければ」と言っています)。

ここまではすべてヌエの話であり、碑の話ではない。
碑とは何かがかつてそこに存在したということの証であり、ヌエのように空虚なイメージもまた碑に刻まれうる。
作中で中禅寺が「妖怪とはいないものをいるとすることで様々な便宜を図るための文化であり、それが近代化によって失われつつある」ということを語るが、実際「いないものをいるとする」ことでしか説明できない事柄はたくさんある。作中の話題では信仰がそうだし、フィクション一般についても似たようなことがいえるだろうし、イデオロギー的なあれこれだってそういうものだろう。
しかし「妖怪」的な文化が失われると人はベタに「いるものがいる(認識したものはすべて実在する、実在するものだけが認識できる)」と考え、陰謀論的な世界に突入してしまう。

もはや素朴に「いないものをいるとする」ことまではできなくとも「いないものをいることにしていた」という「碑」を心に遺して、「いるものがいる」と単純に考えることはせず陰謀論に傾倒しないで生きよというメッセージが作品に込められているのかもしれない(やや適当)(京極本人は「毎度毎度世相のことなんか意識せずに書いているんですけどね。社会に対する警鐘だの啓蒙だの、そういう意図はまったく込められてない」と言っています)。


おまけ。

やや具体的なトリックのネタバレになるが、「容疑者X」的な「見えない人間」を柳田の「山人」と絡めたのは「その手があったか」と思った。他にミステリ的なトリックとかは……特になかった気がする。

「山人」を「化け物の幽霊」と表現するのはまんま『鬼太郎』だなーと思った(幽霊族)。

 

関係ない話。

邪魅の雫』が2006年9月で『化物語』が2006年11月だから化物語以後初めての百鬼夜行シリーズ本編なわけだ(化物語メフィストに先行掲載しているし百鬼夜行番外編はいろいろ出ているのであまり意味のあるくくりではないが)。

物語シリーズは「妖怪」と「構造」ではなく「キャラクター」と「怪異」を採用している、ということが各話のタイトル(「ひたぎクラブ」とか)からもうかがえる。
百鬼夜行シリーズのように話自体が強力に構造化されているわけではないが、「怪異」でゆるやかな構造を作りつつ(それは京極的な複雑な構造化よりも物語形態論的な単純な構造主義に近い)読み終えた時には読者の脳内にディテールとしての「キャラクター」の像が現象するようなつくりになっていて、少なくとも初期物語シリーズ百鬼夜行シリーズを参照したラノベとしての最適解を出していたことは間違いない。

化物語フォロワーになって戦場ヶ原クローンを出す前にできることはあるはずだ、と改めて思った。

『クロの戦記』と世界人権宣言

『クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです』HJ文庫版P.97にはこんなやり取りがある。

被差別種族のハーフエルフであり娼婦の娘でもある自分に対してなぜ優しく接するのか、とヒロインから問われ、現代日本から異世界に転移した主人公であるクロノが回答するシーン。

 

「世界人権宣言だ」
 クロノは半ばパニックに陥りながら中学校で教わった内容を必死に思い起こした。
 「えっと、全ての人は生まれながらに自由で……尊厳と権利において平等である、だったかな? と、とにかく、世界人権宣言が根拠だよ」

 

素晴らしいセリフだ。
そしてP.257にはこんなやり取りがある。

 

「よくないわ! 全然よくないッ!」
「この国では奴隷は合法だし、制度は利用すべきだと思うんだ。じゃ、続きを」

 

これはクロノが後に購入した奴隷から性関係を持つことを拒絶され、しかしクロノは関係を迫り続けるというシーンである。文脈的にコメディ寄りのシーンではあるのだが、クロノはこの会話の直前に勃起していることが明記されている。抵抗がなければ犯していただろう。

この二つのシーンから、主人公の人格を整合的に解釈することができるだろうか?

 

††

何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。
――世界人権宣言 第4条

††


この場でなろう小説における奴隷制度の活用の是非について考える気は一切ない。しかし、この明らかな矛盾……というか人格の破綻のようなものをどう解釈すべきかについては考え込んでしまう。

主人公には一貫した人格が存在せず、中学生以下の知識と性欲でもって場当たり的に行動するだけなのだ、と考えることは容易いが、とりあえずその解釈は措いて違う意味を見出したい。

事実確認。クロノは現代日本から転移した男である。彼はハーフエルフや娼婦を差別しない。彼は奴隷の所有と使用を肯定する。

おそらくここにあるのは、「人間」ではなく「属性」への強い肯定だ。そして「属性」は種族・職業・身分に対して超越的だ。

おそらく、彼は異世界の人々を人間ではなくキャラクターとしてとらえることによってある局面においてはリベラルに振る舞うことが出来ている。ハーフエルフを差別するのではなく、ハーフエルフに萌えることができる。しかしそれは、奴隷に萌えることと直結している。ハーフエルフの存在(=人種的多様性)を肯定すると同時に、奴隷の存在(=奴隷制度)を肯定する。

彼の人権意識は、ハーフエルフ、奴隷、娼婦の一般的な意味での人権を擁護するものではなく、彼の「萌える自由」の宣言であるように思える(表現の自由?)。

ハーフエルフ、奴隷、娼婦を等しく属性として扱いそれに萌えること。これが彼の世界人権宣言なのだ。

このような特殊な人権感覚を持つ主人公を描いた作者が「世界人権宣言」という言葉を唐突に持ち出したことの意味は改めて測りかねる。それはリベラルな理念というものの空疎さを示すものかもしれないし、逆に荒廃した人格の持ち主の「良心」として機能する程度にはリベラルな理念が現代日本の人々に根付いているということかもしれない。

 

(注)

この作品は2012年からなろうで連載しているのだが、2016年にオーバーラップから書籍化した際は内容が大幅に削られて不評を買ったようだ。2019年の書籍化では、原典に忠実なベースの上に加筆を行ったらしい。
なろう版(https://ncode.syosetu.com/n5214bb/)を参照すると、上記の引用のうち前者は第二話にほぼ同様の記述があるが、後者のシーンにあたる第五話には該当する記述はない。このシーンはおそらく2019年ごろに加筆されたものだろう。

 

(2023-07-03追記)

久しぶりに記事を読み直すと同時に軽く調べたところ、なろう版の主人公紹介(https://ncode.syosetu.com/n5214bb/185/)に、

> 特殊:人権思想、絶倫、不意打ち、魔術の多重起動マルチタスク、刻印術Lv1、リオの加護

という記述があることに気がつき衝撃を受けた。人権思想ってスキルだったんだ。スキルとしての人権思想がどのように行使されていくのかは、あまり考えたくないかもしれない。